1953-12-11 第19回国会 衆議院 地方行政委員会 第2号
今日建設省といたしましては、小貝川のつけかえ案は背割提案で行くという方針で、その実施を利根川全体の治水計画の一環として極力早く着手し竣工させたい、そのための現地の用地あるいは家屋移転等の補償については、先ほど申しましたような方針で、極力円満な現地との解決をはかつて推進をいたしたいという考えを持つております。
今日建設省といたしましては、小貝川のつけかえ案は背割提案で行くという方針で、その実施を利根川全体の治水計画の一環として極力早く着手し竣工させたい、そのための現地の用地あるいは家屋移転等の補償については、先ほど申しましたような方針で、極力円満な現地との解決をはかつて推進をいたしたいという考えを持つております。
その次には「背割提案反対運動には今後とも犠牲者が出ることが考えられるので、町内各区域ことに資金カンパを行う」ということを決議しておる。さらにその次には「町民は、山田町長を中心に反対運動に関して一心一体の活動をするなど三項目の決議をした。」とこう書いてあります。
なお背割堤案の方は全体としての耕地のつぶれ地が少いというような点から、最後に建設省といたしましては背割提案に決定いたしたのでございます。
○米田政府委員 御承知のように、背割提案の方は、あの狭窄部付近は岩盤になつておりまして、その地帯を通ります。富永案はずつと下流になりまして、平坦部を通つて参ります。詳しく申しますと、背割提案の方は、右岸堤防の方は本川堤防を充用をいたしますので、片側堤防でいいことになる。従いまして小貝川の右岸堤になる。利根川の本堤になる方は、岩盤に非常に近いのであります。
そこで比較検討いたしました結果、差は非常に少いのでありますが、背割提案が農耕地が一番少い、これが最善ではないかという結論に達しました。それでこれらの案をわれわれは寄り寄り検討いいたしましたが、少くとも富永博士がつくつた——この先輩がおりますので、一応富永さんに御相談申し上げたのであります。富永さんばかりではありません。東京に在住ののわれわれの先輩の技術者にれを御相談申し上げたのであります。
○池田(峯)委員 第一に知事さんにお伺いしたいと思うのですが、この茨城県提出資料の二の「建設省の背割提案確立迄の経過概要」でありますが、これは、「太平洋戦争の熾烈化と共に諸般の状勢は河口付替に一頓挫を招いたのである。」ここまではたいへんこまかくできておりまして、その後はわずか十行足らずの文章しかないのでありますが、ここが私どもとして非常に知りたいところではないかと思うのであります。
なおかような被害が三年ないし五年に一回ぐらいずつ襲来いたしまして、農作物を初め、人畜に甚大な損傷を来しておりますので、この利根川のがんともいうべき小貝川の大改修計画はすでに大正時代にも立ち、なおまた近くは昭和十六年富永氏の案としても計画され、また最近は、布川町を中心とした背割提案というような案もここに立てられ、いろいろ調査研究されて来たのでありますが、いずれにいたしましても、地元のつぶれ地等の関係を
その政党人に迎合してだんだんと今度の背割提案というものになつてしまつたのだ。建設省が技術的に最上の案であるという確信を持つていない証拠として、今度のつけかえ工事をやらなければならないという理由書の中にこういうことがある。たとえばこのつけかえを行わない場合には、現合流点より十七キロ上流の岡関までの堤防を、利根の本堤防と同程度に増強せねばならないということが書いてある。
○池田(峯)委員 簡単に要点を質問したいと思うのですが、そういつたようないきさつの裏面に、山田町長が指摘しておる第一の点は、昭和二十六年度で昭和十四年の決定案にのつとつて高須橋までの堤防の補強工事が完了する、そうすると完了した上流からつけかえをすることになるので、建設省の役人の面子が立たないというきわめて愚劣な理由から背割提案というものが出されて来たのだ、こういつておるわけです。